第1話から読んでない方はホームからどうぞ。
あの日から、さらに数ヶ月が経った。
僕は落ち込むことは落ち込んだけど、自分の機能を停止させるまでには至らないようにと自己防衛していた。
まぁ自己防衛といっても、
(僕も偽善者だ! 偽善は通る道なんだ! 今の僕はこれでいいんだ)
と、半ば無理やりに信じ込ませて、自分の腑に落としていた程度だ。
その防衛の仕方に慣れてきたのかどうかはわからないけど、僕のイライラや落ち込みは、気がつくとかなり薄れていた。
でも、装い利用するヤツだけには相変わらず腹が立った。
これだけは変わらなかった…
**********
僕は、おじいさんから言われた通り、過去の勉強を始めていた。
本を使っての勉強だけど、ご存じの通り僕は貧乏なので、読みたくても家に本がない。
何かを買おうと御駄賃を貯めたりアルバイトをしても、中学に必要なモノを揃えていたらスッカラカンになるので、そんな余裕はコレっぽっちも出てこない。
そこで、小さな頃から{店番}という名目で居座ってよく本を読んでいた、近所のおばちゃんがやっている小さな本屋に行って、{店番}をしながらの勉強だ。
月末おすそわけ巡回ルートの一員?のおばちゃんだったからかも知れないけど、その本屋のおばちゃんは、いつもやさしく迎えてくれた。
{言葉遣いが乱暴で、怒るとチト怖いけど、おすそわけは一番多かったおばちゃんだった}
でも、店番をどんなに頑張っても新品の本は読ましてくれないし、アルバイト代なんかも決して出ない。
たまに出るのは茶菓子と小言くらいだ。
読んでいいのは古本だけの店番… この辺は、さすがに商売人だった。
この日もそんな感じで店番をしていると、おばちゃんが僕の読んでいる本を見て、
「ふ~ん、あんた、こんな小難しい本を読むようになったんやねぇ~。でもまぁ本を読んで知恵が付くのは良いこったな」
と感心してきた。
小難しいかどうかはわからないけど、僕は過去を勉強できる本なら何でもよかったので、歴史、社会学、心理学、哲学みたいな本を適当に選んでは、片っ端から読んでいた。
今日読んでいたのは、ハイデガーの本だった。
「ヘヘ~ッ、もう中学生だからね。これくらいの本は読まないと」
って気取って見せた… でもだ。
(ハイデガーって、何を書いとるのかサッパリわからん… 意味不明だぞ)
これが本音だった。
だからおばちゃんが話しかけてきたことが、ちょうど良いタイミングだと思った僕は、おばちゃんの言った{知恵}という言葉で、おばちゃんとの{装飾事件}を思い出して、この本からサッサと逃げた。
でも、その{装飾事件}というのは、何度思い出したかわからないほど強烈なモノだった。
**********
それは、僕が小学校3年生の夏休みのときのことだった。
おばちゃんからもらったアイスクリームをペロペロしながら店番していると、
「ほれ、3千円渡すから、このお店が繁盛するようにしておくれ」
と、ぶっきらぼうに言ってきた。
「えッ、3千円でこのお店を繁盛させるの?」
「そうだよ。好きなようにやってごらん」
(面白そうだな。一丁やっちゃるか!)
ボクは、おばちゃんからお金を受け取ると、残りのアイスクリームを口の中へ押し込みながら近所のスーパーに駆け込んで、お遊戯会で飾り付けるような買い物をした。
ボクが飾り付けの買い物から帰ると、どうやらおばちゃんは出かけているようだ。
(よしッ、おばちゃんが帰ってくるまでにキレイに飾ってビックリさせてやろう)
ボクは、せっせとキンキンキラキラの装飾品を本屋の玄関周りに張り付けていった。
あらかた出来上がったころ、いいタイミングでおばちゃんが帰ってきた。
「なんだいこれは?」
「飾りつけしたんだよ。キレイでしょ? んで、これが40円のおつりと領収書ね」
ボクは得意そうに、おばちゃんに手渡した。
おばちゃんは、ボクから受け取ったおつりと領収書を右手でギュッと握りしめると、そのゲンコツをボクの頭に振り降ろした。
ガコッ
「☆☆☆!」
ボクの目の前に、星が飛び散った。
おばちゃんのゲンコツは、とにかく痛い。
骨が細いから、刺さるように痛いのだ。
あまりの激痛に声も出ずにうずくまっていると、おばちゃんの説教が始まった。
「ハタキやホウキとか、商品札が古くなってきたから買い替えるとか、床のワックスを買ってきてピカピカにするとか、ハエや蚊がいるから殺虫剤を買うとかやって、『ほら、おばちゃん、キレイで清潔なお店になったからお客さんがもっと来るよ。お金もあんまり使ってないから、おつりもこんなにあるよ』って出来なかったのかい? それがこんなキンキラキンで、おつりはたったの40円… あきれるねぇ、まったく」
と言ってきた。
なんだか納得いかないボクは、ふて腐れて口答えした。
「だっておばちゃんが、好きなようにやれって言ったんじゃない…」
「男のクセに、うるさいッ! 今から大事なことを教えてやるから、よく覚えとけッ」
「・・・・」
「金を出すな、知恵を出せッ! ってんだ、わかったかッ!」
「・・・・」
ボクは、{こんなこと小学3年生に教えることじゃないだろッ}と幼いながらに思いつつ、この頭の痛みとともに、この言葉は一生忘れられない金言となった。
**********
「クッ クッ クッ…」
僕は、そんな装飾事件を思い出して、漏れるように笑ってしまった。
「どうしたんだい? 今読んでる本ってのは、そんなに面白いのかい?」
「うん、面白いよ。おばちゃんには絶対に敵わないけどね。アハハハ」
「相も変わらず変な子だねぇ、いったい何考えてんだか…。気味悪いったらありゃしないよ、まったく…」
相も変わらずなのは、おばちゃんもだ。
おばちゃんは、幼少のころから奉公に出されていたらしいけど、この性格はそこで培ってきたみたいだ。
もういい年齢で男じゃないけど、{いなせ}って感じだ。
僕は、そんな下町風情漂う、小粋で勇み肌のおばちゃんが大好きだった。
「おばちゃん、また来るね」
おばちゃんにそう言うと、まだ日が高かったし、少し気になっていたことがあったのでサっちゃんの家に行くことにした。
**********
(やってるやってる)
スリガラス越しに、サっちゃんが勉強してる姿がボンヤリ見えた。
ここ1年くらいサっちゃんの家に行くと、必ずと言っていいほどスリガラス越しに勉強をしているのが見えていた。
いつもいつもだ。
僕が、{なんの勉強してんの?}って聞いても教えてくれない。
ただ黙々と、ひた隠しにして勉強しているのだ。
サっちゃんのお母さんに聞いても、何の勉強かは知ってても、サっちゃんに口止めされているようなので教えてくれなかった。
でも勉強する理由までは、まったく知らないようだ。
それが知りたい僕は、いつも鍵が掛かっていないはずのスリガラスの窓を開けるために、サっちゃんに気づかれないよう忍者のように忍び寄った。
(今日こそは、サっちゃんの秘密を暴いてやるぞ…)
僕は息をひそめて近寄った。
ガラッ
「サっちゃん、何してんの?」
急に窓を開けてサっちゃんの机の上を覗き込んだものだから、ビックリしたサっちゃんの眼が飛び出そうになっていた。
サっちゃんは慌てて机の上を隠そうとしたけどもう遅い、僕にはチャンと見えていた。
どうやらサっちゃんは、{さんすう}の勉強をしていたらしいのだ。
「サっちゃん、算数の勉強してたの?」
「・・・・」
サっちゃんの眼が、{このヤロー}っていう眼になっていた。
(あッ、やっぱり怒っちゃったな…)
サっちゃんを怒らせてしまったので、今日は帰ろうと思って、
「勉強だったら、いつでも教えてあげるよ。じゃぁまたね」
と言って、帰ろうとしたときだった。
「お、お兄ちゃん… さんすう… 教えてくれる?」
サっちゃんにそう言われて振り向いた僕は、その眼が真剣になっていることに驚いた。
サっちゃんのこんな眼は初めてだ。
僕はチョット、うろたえてしまった。
「えッ、あッ… う、うん、いいよ。教えてあげるよ」
そう言うと、ついさっきとは違うサっちゃんのところへ近づいていった。
「算数を教えたらいいの? 国語とかは?」
「さんすうだけでいいの… 教えてお兄ちゃん」
サっちゃんの{だけ}という部分… その{だけ}という部分から伝わってくるモノに、訴えかけるというかなんというか、哀願みたいなものを感じた。
僕は、そんなサっちゃんに気後れしないように、いつもと変わらないお兄ちゃんを装った。
「見せてごらん。わからないのは、どの問題なの?」
「えっと… これ…」
僕はその問題を見て、気が遠くなるような愕然に襲われた。
サっちゃんから受け取ったその問題集には、
《りんごが6つありました。おかあさんから、りんごを5つもらいました。そのりんごをともだちに4つあげると、りんごはいくつのこったでしょうか?》
と書かれてあった。
(サっ… ちゃん…)
サっちゃんの知的障碍の程度を知ってしまった僕は言葉を失った。
(保育園に行かなかったのも、これが… 理由…)
そういえばサっちゃんは、今、小学5年生だけど、やけに小さい…
それに話し方も、小学1、2年生くらいの喋り方だ。
よく喋るようになったのは、ここ最近のことだった。
僕が、問題集を見つめながら固まっていると、サっちゃんが、
「お兄ちゃん、わかるんでしょ? お願い、教えて」
と、僕を見つめながら催促してきた。
それは… その眼差しは、懇願と言っていいほどだった。
その一途さに泣きそうになった僕は、自分の両頬をパンパンッと手で打った。
(よしッ、僕に出来る事をしよう!)
その頬の痛みとともに、気持ちを強制的に切り替えた。
(無理やりだろうが、なんだろうが、そんなことどうだっていい。とにかく笑うんだ)
気合を入れた僕は、ニコッと笑顔を作ってサっちゃんを促がした。
「じゃぁ、教えるよ。準備はいい?」
「うんッ!」
サっちゃんが笑った。
やっぱりサっちゃんは、笑うとかわいい。
それから僕は、思いつく限りの方法でサっちゃんに教えた。
指を折って数える・絵を描いて数える・ボールも使って教えてみた。
でもだ… それで気がついたことがあった。
どうやらサっちゃんは、図形の認識も苦手なようだった。
それもかなり…
そうやっていろいろ試した結果、ボールを使うやり方が、サっちゃんには一番合っているようだ。
そう思った僕は、使い込んでボロボロになっている問題集のページをめくり、次の問題を確認すると、サっちゃんにボールを使ってやらせてみた。
《みかんが6つありました。そのみかんをともだちに3つあげました。つぎに、おかあさんからみかんを2つもらいました。さて、みかんはいくつのこったでしょうか?》
大きな声で読み上げると、サっちゃんがボールを使って解き始めた。
「さてサっちゃん、みかんはいくつ残ったかなぁ?」
「チョット待ってお兄ちゃん… え~っと~、1・2・3…」
サっちゃんが残ったボールを真剣に数えてる。
そして小さな声で自信なさそうに、
「5つ?」
って答えたけど、自信を持って答えて欲しかった僕は、チョット意地悪をした。
「んッ? 聞こえないなぁ、いくつ?」
それを聞いたサっちゃんは、唾をゴクリと飲み込んで、
「えっと… 5つッ!」
って、ハッキリと答えた。
でも僕の意地悪は続いた。
何も言わずに、サっちゃんを無表情で見つめてみたのだ。
するとサっちゃんは、受験生が合否通知を確認するような感じで、胸の前で祈るように手を合わせ、僕の発表を今か今かと待っていた。
(もうこの辺でいいかな?)
そう思った僕は、思いっきり発表してあげた。
「5つで、正解でぇ~す!」
サっちゃんの眼がキラッとした。
「ホントに? ホントにホントに?」
「うん、ホントだよ。サっちゃん正解ッ」
サっちゃんの表情が、みるみるパァ~ッと明るい笑顔に変わっていく。
「やったぁ~ッ、できたぁ~ッ わたしできたぁ~ッ! お兄ちゃんありがとう」
サっちゃんは、正解した5つのボールを両手いっぱいに抱えると、うれしそうに部屋の中をピョンピョン飛び跳ねだした。
これだこれこれ! この顔だ。
花が一気に満開になるようなこの笑顔。
僕がサっちゃんに意地悪したのは、これが見たかったからなのだろう。
(よっしゃ、今日は日が暮れるまで、サっちゃんとさんすうだ)
そうして2人で楽しいおべんきょうを続けて、その日が終わった。
**********
それから数日後。
今日は体育祭の振替休日で学校はお休みだ。
天気も良かったし振替休日の平日なので、僕は自転車で30分くらいのところにある、サっちゃんが通う養護学校に行ってみることにした。
前々からサっちゃんが、養護学校でどんなことをやっているのか見てみたかったのだ。
その学校は、小さな山の谷間の林の中にあった。
もちろん中には入れないので、横のガケの上から見みようと、ガケの脇からよじ登った。
僕は、先生や生徒たちに見つからないように、たくさん生えてある木の陰に隠れてソ~ッと覗いてみた。
どうやら今は運動場で遊ぶ時間らしい。
みんなが運動場で遊んでいる。
(あッ、いた! サっちゃんだ)
サっちゃんを見つけた僕は、思わず声を出して手を振りそうになった。
でも、サっちゃんの異変にスグに気がついた僕は身をすくめた。
(んッ? なんか変だぞ…)
目を凝らして見ると、サっちゃんを囲む2人の男の子が、サっちゃんに何やら言っている。
僕は、その上級生らしい男の子たちの声を、耳を澄ませて聞いてみた。
「こいつバカなんだよ。あんな簡単な{さんすう}ができないバカなんだよ」
「や~い、バ~カ、何回やってもできないバ~カ」
サっちゃんがイジメられていた。
肩を小突かれながらバカにされている。
先生は、ほかの生徒で手いっぱいみたいなので、まだ気づいていない…
なんだか僕は、その2人の男の子を捕まえて、とっちめてやりたくなってきた。
でも何もできずに、ただジッと身をひそめるしかなかった。
それは、自分のことを{部外者}と、思っていたからだった…
**********
やっと先生が気づいてくれた。
先生は、サっちゃんからその男の子たちを引き離すと、サっちゃんとは別の教室にサッサと連れて帰った。
この2人の男の子のイジメ方と、止めに入った先生の言葉の内容や、手慣れた態度を見れば、サっちゃんが{さんすう}で、いつもイジメられていたことは容易にわかった。
サっちゃんは、イジメられている間、泣くこともなく、言い返すこともなく、ただ視線を落としてジッとして耐えていた。
ただジッとして…
(悔しいだろうな、サっちゃん… それでいつも{さんすう}の勉強をしてたんだな…)
僕は、なんとしてもサっちゃんに{さんすう}が出来るようになって欲しくなったので、サっちゃんのために特訓をしようと決めた。
(絶対に僕が出来るようにしてやる。イジメられながら、あんなに毎日、ひたむきに勉強をやってるサっちゃんに、出来ないはずなんかない)…と。
**********
早速その日の夕方、サっちゃんが帰って来る時間を見計らってサっちゃんの家に行った。
「サっちゃん、さんすうの勉強やろっか?」
「あッ、お兄ちゃん。うん、やろうやろう。教えて」
(いつもと変わらない笑顔… 昼間、養護学校でイジメられてたのに…)
どんなに辛いことがあっても、それを微塵も感じさせないサっちゃん…
そんな健気なサっちゃんを見ていたら、グッときてしまった。
パンパンッ!
頬を打って気を入れ直した僕は、気合満タンで教えだした。
「はい、サッちゃん、この問題は?」
「チョット待っててね、お兄ちゃん。ボール持ってくる」
そう言うサっちゃんを、僕は引きとめた。
「今日から道具は使わないよ。ほらッ、サっちゃん席に戻って」
「えッ? 今日から?」
「そうだよ。心配しなくてもサっちゃんなら出来るよ。ほら早く席について!」
サっちゃんは、渋々ながら席について鉛筆を手に持った。
「え~と、う~んと… 4つ?」
「不正解。はい、サッちゃん、最初から考えてみて」
「え~と… じゃぁ、3つ?」
「じゃぁ、って何? チャンと考えてんの? どっちにしても間違いだよ。でもサっちゃんなら、やれば必ず出来るんだから、もう一回やり直しッ」
僕は、こんな熱血教師さながらの感じで教えた。
「え~と、う~んと、だからぁ、う~んと…」
そうやって、なかなか答えが出てこないサっちゃんに、僕は少しイライラした。
「サっちゃん! この問題は、この前やった問題だよッ。どうしてわかんないの?」
「・・・・」
「ほら、黙ってないで答えてごらん。サっちゃんなら出来るんだから!」
「・・・・」
サっちゃんが、ゆっくりと僕の眼を見つめてきた。
でも、そのサっちゃんの眼がとても悲しい、いや、怯えた眼をしている。
そのサっちゃんの眼を見て、少し戸惑ってしまった… でも、
(いやいや、甘やかしちゃダメだ。ここは心を鬼にしてやらないと)
僕はサっちゃんを、逃げ場がないような表情で睨んだ。
(サっちゃんをイジメから守るんだ! 僕がサっちゃんを助けるんだ!)
と思いながら。
**********
少しの時間が流れたあと、サっちゃんが恐る恐る口を開いた。
「今日のお兄ちゃん、こ、怖い…よ… どうしたの?」
「・・・・」
その言葉に僕は、何だかいけないことをしているような気持ちになってきた。
(ダメだダメだ、サっちゃんがイジメられる!)
そう思い直して、自分にとサっちゃんに発破をかけた。
「サっちゃんは、やれば必ず出来るんだから、一所懸命に教えてるだけだよ。サっちゃんも悔しいでしょ? さんすうが出来ないと悔しいんでしょ? だから毎日毎日、あんなにさんすうを頑張ってやってたんでしょ? 学校のみんなにもバカにされるかもしれないし…」
僕はサっちゃんがイジメられていることには、直接触れないような言い方をした。
するとサっちゃんは、下を向いたまま黙ってしまった。
「どうしたの? サっちゃん…」
「・・・・」
「さんすうは、もうやらないの?」
僕のその言葉に、サっちゃんは下を向いたまま無言で首を横に振った。
「じゃぁ、どうしたの? 話してごらん」
僕は、やさしくサっちゃんに問いかけてみた。
このとき僕は、
{イジメられてて嫌だよ。どうしたらいいの? みんなからバカにされたくないよ}
といった感じの内容に、なんと言ってあげようかと考えを巡らせていた。
しばらくたって、サっちゃんがゆっくりと顔を上げてきた。
サっちゃんのその眼は、さっきとはまるで違う切実な眼になっていた。
「ねぇ、お兄ちゃん… 誰にも言わない?」
「何を?…」
「私が{さんすう}を覚えたいワケ… まだ誰にも言ってないんだけど…」
その言葉を聞いた僕は、{イジメだろうが何だろうが、僕がなんとかしてみせる}と覚悟を決めた。
「うん、誰にも言わないって約束するよ」
「じゃぁ、約束して」
そう言ってサっちゃんが小指を差し出した。
指きりげんまんのことだ。
僕は{絶対に約束は守るよ}という感じで、サっちゃんの小さな小指にシッカリと自分の小指をからませた。
「お兄ちゃん、約束だからね…」
「うん、約束だ」
サっちゃんは、からめた小さな小指に願いを込めるように、クッと力を入れてきた。
そして…
僕の眼を見つめたまま、静かに、ゆっくりと話し始めた。
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あのね おにいちゃん
わたしね
おかあさんになりたいの
そしてね
いっしょに
おかいものにいきたいの
そしてね
おかいものを おしえてあげたいの
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(…これが、サっちゃんの 勉強する 理由…)
僕は、サっちゃんの真っ直ぐなモノに突き刺されて動けなくなった。
サっちゃんの小さな小指から、{叶えたい}という切なる想いが伝わってくる…
僕の胸に・・・
僕の眼に・・・
熱いモノが込み上げてきた。
(い、今まで、何をやってきたんだ… 僕は…)
サっちゃんが、僕に{どうしたのお兄ちゃん?}という表情を見せた。
「!」(そうだ、やろう! 僕に出来る、{サっちゃんのさんすう}をやろう!)
「ほらッ、サっちゃん、ボールを持っておいで! ついでにお母さんの買い物カゴも借りておいで! それで買い物ごっこしながら{さんすう}やろうッ!」
サっちゃんの眼がキラッと光った。
「うんッ! さんすうやろうッ! さんすうッ!」
サっちゃんは元気いっぱいに、ボールと買い物カゴを取りに行った。
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【質問】
アナタハ ベンキョウヲ シテイマスカ?
アナタノ ソノベンキョウハ ナンノタメデスカ?
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【少年編《09》おべんきょう】おしまい。
【少年編《10》刷り込み】へ